|
三崎尚人(同人誌生活文化総合研究所)
藤本さんの話にあった'91年のことを、今となっては知らない人がかなり多いようなので、補足として、もう少し深い当時の話をさせていただきます。
当時、「有害」コミックの追放運動が全国的に進む中で、商業誌ではいろいろと雑誌の休刊とか自主規制が行われました。同人誌の世界は、今より小さい世界でけっこう無頓着にやってた部分もあり、無修正な同人誌が頒布されていました。それが書店に委託されていたということで、'91年2月に複数の有名な書店やマンガ専門店が、わいせつ図画販売目的所持で摘発され、5人の方が逮捕、その後70人ぐらい、同人誌作家さんやサークル関係者の方、あるいは印刷業者の方が書類送検されたという事件がありました。
当時コミックマーケットは幕張メッセでやっていたわけですが、この時にほぼ同じくして、善意の一市民から千葉県警に無修正の同人誌が送りつけられ、それに基づいて、幕張メッセに県警から事情聴取が行なわれました。その絡みでコミックマーケットは幕張メッセを借りることができなくなり、晴海の東京国際見本市会場に戻ったわけです。
先ほどコミックマーケットの市川さんも話していましたけれども、コミックマーケットの“アピール”の今の原型というのはこの時できたものです。それまでもコミックマーケットは見本誌をずっと取っていたわけですけれども、その見本誌の内容を確認して、問題のある同人誌があった場合はそこで販売を止めるということをしないと、会場としては貸せないよ、という話が晴海側からあり、それを受けていわゆる見本誌チェックというものが始まり、'91年から現在まで来ている。その中で、特にわいせつに関するチェックと、著作権、デッドコピーみたいなものですね、そういうものの対応もされているみたいです。
コミケットアピールにかかれている即売会の基準というのは、最大限サークルのみなさんに、なるべく可能な限り自由な形で同人誌を作っていただきたいと、そのベースとなるものということです。決して即売会の主催者がなにか規制をしたいからといって設けているわけではない。この点は、釈迦に説法みたいな話もありますけれども、くり返しもう一度確認したいと思います。
坂田:実際、児童ポルノ法が制定された時に、小説や漫画等は当該項目に入らないことで落ち着きました。それは表現の自由に基づいた判断で、非常に冷静な判断であったのではないかなと。今回の「バーチャル社会のもたらす弊害から子供を守る研究会」においても、これを法令化するのは表現の自由に基づいたところから問題があるのではないか、という意見もちゃんと出ております。
そういうなかで、18歳未満に関しては児童ポルノ法というよりは青少年健全育成条例で定められている部分ですが、当然これは割と最近できた条例で、僕らが若いころにはそういった法律もなく、どちらかというと、これはあくまでその時の情景としてですが、普通にいわゆるわいせつ本が自動販売機で売られているぐらいおおらかな時代があったんですね。それが今どんどんゾーニングされていっている。その背景に、18歳未満に有害な影響があるのではないかというところに立脚した視点で、そういったゾーニングがなされているように見受けられるんですが、心理学の見地から斎藤先生、いかがでしょう。
斎藤環(精神科医)
私とこの問題との関わりは、先ほど話題に出た松文館裁判での意見陳述と、東京都の青少年問題の検討委員会みたいなところで、条例でわいせつコミックのコンビニ販売において、それにカバーをするかしないかみたいなそういう議論でいろいろ意見を戦わせたという経緯があるんですけれども、精神医学の側でこの問題に知見の蓄積があるかと言えば、全然ないんです。メディア論のなかでも、思想とか信条について、それがメディアでどう伝達されるかみたいな議論はあるんですけども、性的なものに関してはほとんど研究がないというのが現実のようです。だからよくクラッパーという学者の限定効果説というのが引用されますけれども、あれも基本は政治的な主張であるとか、思想信条みたいなものがメディアを介してどう伝達されるかということに関する説であるのに、それをこういう暴力的表現であるとかわいせつ表現であるとか、そういった部分にも応用がきくのではないかという、やや強引ないい方がされているように私は思うんです。ただこの点に関しては、わいせつ表現がわいせつな行動を促進したりとか、あるいは暴力表現が暴力的な行動を助長したりとか、そういった根拠はなきに等しいというのが現状と言っていいと思います。
もうメディア論の傾向自体も、このへんを証明しようと躍起になった研究はだいたい'50年代、'60年代あたりに集中してあるんですけれども、最近はそのへん、まったく新しく、非常に有害であるという根拠が提出されるという見込みはほぼないといっていい状況だと思います。
松文館裁判で思い出すのは、その時の判決文の中だったと思うんですけれども、青少年の強制わいせつ事件の件数に関して触れた下りがあるんですね。これは昭和49年の段階では年間2000件あったと。それがだんだん時代が下ってくると、だいたい4分の1くらいの水準で推移している。微妙な増減はあるんですけど、そんなに激増したりとか激減したりはしていない。これはほかの殺人も含む凶悪犯罪の傾向とほぼ一緒で。だいたいこういったもののピークは昭和35年と、まあ、今ちょうど団塊の世代の方々が思春期だったころにピークがあるんですけれども、その後どんどん、そういう傾向は減少している。
エビデンス(根拠)ってことをいえば、今は子供であっても、ゾーニングといったって、ネットでいくらでもわいせつ画像が見れるという状況で、最もアクセシビリティが高い時代になってしまっている。あふれているとまではいいませんけど、主にネットの普及によって、昔は隠れてこっそり見るものだったものが、簡単に見れてしまう。そういう状況が一挙に普及したにもかかわらず、犯罪件数が減少しているという点からだけでも明らかだと思うんですけども、この判決文は妙なことに、その後にですね、しかしながら年齢を限らない性犯罪は増えていると、だからいかん、みたいな、ちょっとアクロバティックな論理展開になってしまっていて、ちょっとこれはどうしたものかなという。だったら少年の例を出さなきゃいいのになと思ったんですけれども。まあ、そういう青少年に関する影響というのはかなり限定的なものだということは、この点からいってもいえると思います。
だから私の論旨は、松文館裁判の時に裁判所で同人誌をいろいろ持ってきて、ショタがどうしたとかいろいろ解説したんですけど、そういう言葉を出すまでもなく明らかで、一応補足的に説明しておきますと、例えば今ショタっていいましたけど、やおいとかBLとかいってるジャンル、これは女性が読む、男性同士の恋愛ストーリーということになってると思うんですが、これが果たして、女性読者に対してどのような行為を促進するのかと、そこに尽きてると思うんですよね。そういうものを見てむらむらした女性が何をするのだろうかというですね、こういうすごく難しい議論になってくると思うんですよ。
まあ、同人文化とは限りませんけれど、オタクの萌えカルチャーみたいなのがあるとしたらですね、これは私の考えでは、定説がないので珍説を展開しますけれども、私の考えでは、バーチャル空間の中に、ほぼ独立した性的欲望のエコノミー、そこで自立してしまっている、自足してしまっている、そういうものをかなり完璧に成立させつつあると、そういうことのほうがひょっとしたら、問題、といっていいかのわかりませんが、特異な現象かもしれないと。
実際、私も臨床で若い患者さんをたくさん見てます。彼らが同人誌を読んでるかは知りませんけど、けっこうオタクカルチャーの深夜アニメとかいろいろ見てますから、中には同人文化に親しんでいる人たちもいるでしょうけれども、もちろん彼らの中に性犯罪に走った人はいない。むしろ、ちらほらといるのは「俺はもう2次元だけでいい」と(会場笑い)。本田透さんのようなことをおっしゃる方がちらほらと最近増えつつあるかなと。これはこれでゆゆしき事態ではないかという。つまり同人誌文化というものがあまりにも洗練されて、完璧な、そこで自立する欲望のエコノミー空間ができあがってしまったので、そちらの住民になってしまうとですね、リアルワールドでの行動が抑止されてしまう可能性、そちらのほうが高まってる可能性、いやこれは冗談じゃなく、わたしは本気でそういう可能性を考えているところがあります。
そうでなくてもバーチャル空間云々という議論のナイーブすぎるかなと思うのは、結局ネットカルチャーがこれだけ発展してもですね、いまだにデジタルディバイドとはちょっと違いますけれども、ネットの中でものすごく盛り上がったり流行ったりしていても、それは現実の世界ではまったく知られていなかったりとか、この辺のギャップがどんどん広がっている感じっていうのがあるわけです。
バーチャル空間っていうのはそういう風に自ずと隔離されていく性質を持っていて、現実に対して少なくとも直接の影響を及ぼす可能性はほぼ否定された、と考えていい。でなければ、メディア論で特に言われていることですが、その人が持っている先行的な素因であるとか、傾向であるとか、こういったものを強化する、補足する、こういう形での影響ならそれはあるかもしれません。ただ幸いなことに、それが今のところ性犯罪に直接的に結びついている根拠はない、といって構わないと思うんですね。
精神医学ではありませんけれども、精神分析学者のラカンの影響を受けたジジェクは、結局はセックスというものもマスターベーションの変形である、みたいな言い方をしてるところがあって、マスターベーションよりはずっと純度が低い、そういった意味では異端の行為みたいな感じですね。だから別に純粋にマスターベーションファンタジーを追求できる空間があれば、そこでけっこう人間は満足するものであるという可能性がこの言葉には秘められていると思うんです。規制の問題を考える前に、人間のセクシャリティの性質をもう一回そういった視点から見直す必要があるんではないかと思いますし、少なくとも、メディアが、その青少年の問題行動をそそのかすからうんぬんという議論はほぼ成立しない。
もちろん私も、だから何でもありということはまったく思いませんし、そういった意味ではゾーニングの必要性も感じています。ひとついえることは規制であるとか、法律であるとか、そういった部分に価値判断や倫理的判断を持ち込むのはやはりおかしいと言わざるをえない。むしろそれは、場合によっては相反するかもしれない問題系であり、ですから、むしろそういった倫理的なものを追求するとすれば、それはやっぱり最大限に、自由を、表現も含めて自由を確保した空間の中でしか倫理性の追求はできないと考えています。その意味で、同人文化のすそ野の広がりみたいなものを不当な形で規制することは、むしろそういう倫理的な判断の衰弱につながる可能性すらあると思います。
坂田:斎藤先生がおっしゃっていた中で、僕もちょっと考えたところがあるんですけども。子供を対象にした性売春であるとか、そういった直接的な行為が厳重な処罰の対象になるのはいうまでもないことですが、ただ、いわゆる内的な精神世界をなんかしらの形で表現するという行為、これはひとつの創作行為として考えられるべき問題なのではないかなと、そう思うわけですが。
|